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2024年5月15日(水)

被災しました。京都田辺中央病院 馬場 昭好

 

 

(はじめに)

私の実家は石川県珠洲市にあります。

1月1日の能登半島地震に現地にいたので、その体験を記します。

 

(震災体験記)

今回の年末年始は久しぶりに長期休暇が取れたため帰省することにしました。正月の帰省は20年ぶりです。大みそかの夕方に実家に着き、夕食を食べて就寝。

 

 1月1日。親と一緒にのんびり車を走らせドライブがてら神社に参拝しました。昼の3時過ぎに家に戻り、一息ついていたのですが、4時過ぎごろ突然大きな揺れを感じました。鍋はひっくり返るわ、まわりの物が散乱するわで、ひどい状態になりました。母は文句をぶつぶつ言いながらもひっくり返った鍋を片付けていましたが、そこへ二度目の揺れ。一回目以上の強い揺れで、私はとっさに近くの食器棚が倒れないように必死に押さえつけていました。30秒ほど揺れは続いていたでしょうか。

 

 揺れも収まり、何とか棚は倒れませんでしたが、中の食器はぐしゃぐしゃ、床は物がさらにひどく散乱。電気も切れてしまい、そのうちだんだんと日も暮れ暗くなってくる。暗くて片付けも出来ない状態だったので、親とともにとりあえず外に出ました。近所の人たちも無事を確認がてらぞろぞろ外に出てきて、みんなで近くの小学校(母校)に避難することとなりました。家の周辺はそれほど倒壊した家もなく、この時点で広範囲のひどい災害になっているとは知りませんでした。

 

 小学校では非常電源が作動して、電気はついていたためひとまずほっとしましたが、上下水道が完全に使用できなくなっていて、トイレが流せない。それでもみんなトイレに列を作り、用を足すので、すぐに使用できなくなりました。元日の夕食が支給された避難食で、新年早々何と幸先の悪いスタートだと思いました。小学校の避難場所は床が冷たく横になれず、夜中中ずっとイスに座りっぱなし。その間も余震が何度もあり、びくびくしながら全く寝られず夜を過ごしました。

 日が明け、自己責任で帰宅許可のアナウンスが出たので、みんなでぞろぞろ帰宅。家は少し傾き屋根瓦が落ちて散乱していましたが、何とか倒壊せずに済んだので、とりあえず親と散乱した物の片付けをしました。二階はタンスが倒れぐちゃぐちゃの状態となっていました。

 

 

 昼からは町の様子も気になり、海辺の地区に探索に出かけましたが津波跡や全壊の家屋が散乱し、とても酷い状況でした。

 家は3日に電気が付くようになり、暖房、テレビ、携帯充電などが使用出来るようになりました。他の避難している方と比べると大変恵まれており、この日から私は家で夜を過ごし、親は避難所で過ごすことにしました。

 

 この間だけでも余震は幾度とあり、揺れの少し強いものは緊急地震アラームが鳴ります。本当に毎夜びくびくしながら寝ていました。

 

 

 4日には県外の緊急車両が目立つようになり、京都からの車両も何度か見かけました。やっと救援活動が本格化した感じを受けていました。

 

 本来はこの日から仕事始めだったのですが京都に戻れず。通信は出来ていたので病院に現状を伝え休み継続。しかし帰ろうにも当然公共交通機関は全滅。道路状況は悪く、親戚兄弟などから助けを呼ぶにも金沢方面から車で来るのは容易ではなく、しかも救援車両優先でしたので、個人での往来は規制をかけようかという動きでした。しかも7日から天気はくずれ大雪の予報でした。

 

 しかし急遽、規制がかかる寸前、6日に親戚が車で金沢まで乗せてくれるという幸運に恵まれました。通常であれば3時間とかからない珠洲―金沢の距離ですが、道路崩壊のため、徐行、迂回を繰り返し、6時間かかりやっと金沢駅に到着。最終列車に乗り何とか夜半に京都に戻れた次第です。

 

(最後に)

 今回の地震で亡くなられた方もたくさんおられます。謹んでお悔やみ申し上げます。

 

 私の場合、家が珠洲市の中でも比較的市街地にあり孤立せずに済みました。また家が倒壊せずに残り、家族共々怪我もせずにすみました。大変運が良かったと思います。

 親は現在珠洲市を離れ二次避難しています。

 

 日本は地震大国ですが、私の田舎が大地震によって崩壊するなんて夢にも思いませんでした。被災することは決して他人事ではないと改めて思い知らされました。

 

 

 

 最後になりましたが、珠洲市含め奥能登地方の復興を一日も早く切に望みます。